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母方の祖母は私にとってはお母さんがわりだった。母は、幼い私を祖母に預けて勤めに出ていたらしい。祖母は、初孫の私を可愛がって育ててくれた。牛乳を嫌がる私に、市販のカルピスを飲ませるより自家製がいいと、薬局で乳酸菌を買ってきて、砂糖を加えて、牛乳と混ぜて、少し分離したその飲み物を飲ませてくれた。私は毎日、楽しみにしていて、コクコクと喉を鳴らして飲んだという。

祖父母は地続きの隣の敷地に家庭菜園をしていて、祖母は畑に私をいつも連れて行った。祖母は台所で出た生ゴミを肥料としてみかんの木の根元に埋めていた。それを見た私は、しばらくみかんに対してハンガーストライキを起こしたという。どんなに甘いみかんでも、生ゴミを栄養に育つことが小さいなりに嫌だったのだ。しかし、美味しい苺を収穫した祖母が食べさせてくれると、みかんのことは忘れて苺を夢中で食べた。その年は苺が大豊作だった。私は三歳だった。そして、その苺を育てていた曽祖父は、実った苺を食べることなく亡くなった。

曽祖父の葬儀で、幼い私は、死というものを理解しておらず、曽祖父を探して歩き回った。それを見た大人たちは、一層涙したものだったという。

私の一番古い記憶というのが、もう、セピア色だが、うっすらと残っているのだが。変な話だが、祖母に抱き抱えられて、汲み取り式の和式トイレで、お尻を拭いてもらっている。祖母は、チリ紙を揉んで柔らかくして私の小さなお尻をきれいに拭いてくれて、その後、

「あれ、これ、血いか、トマトか。」

と、紙についた小さな赤い点をびっくりして見ているのだ。克明に覚えている。私はまだ喋れなかったけど、祖母の言葉の意味はよくわかった。その赤い点とは、チリ紙に混じった紙の繊維だった。

そして、私はお昼寝の後、祖母が冷蔵庫に作っておいてくれたおやつのココア寒天を、嬉しそうに食べたのだ。

祖母のおやつは、子供の健康に良いものばかりだった。カルシウム不足に、牛乳から作るカルピス。私は便秘だったらしいので、乳酸菌と寒天。そして、買い物に行くと、祖母はいつもビスコを買ってくれた。

「せっちゃんの子やし、緊張したがな。」

と、のちになって、祖母は私を預かっていた頃の気持ちを語ったことがある。やはり、重責だったのかもしれない。孫には責任を感じなくていいから楽だ、とよく言われるが、祖母は少なくとも私には責任を感じていたのだ。

近くの牛乳屋さんで買ってくれる、瓶入りのヨーグルトも大好きだった。白いプレーン味のものと、オレンジ色のフルーツ味のものがあった。両方、ゼラチンで軽く固めてあった。

祖母の作る塩昆布は、みんなの大好物だった。日高昆布の角切りのものを量り売りで買って来て、干し椎茸や、山椒の実や木の芽をたっぷり入れて、醤油と水飴で昆布が柔らかくなるまで煮てある。あったかいご飯にお茶漬けで最高だった。あの味は、誰も真似できない。

その後、私たち親子は都会に居を構え、やがて五歳下に妹が生まれた。祖母は、遠く離れて暮らす私たちに、時々は小包を送ってくれたり、電話をかけてくれたりした。そして、私たちは、正月や夏休みに帰省しては、祖母の作るご飯を食べた。

(第二話に続く)

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