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祖父が肺癌で亡くなった直後、祖母は様子が変だった。祖父の葬儀の後、叔父や叔母やその家族は、すぐに帰ってしまった。祖母の様子がおかしいのを、私はなんとなく気づいていた。祖父を失ったショックだったろうと思う。看病や葬儀の疲れもあっただろう。祖母には誰かそばにいる人が必要だった。その役目を私ができたことは良かったと思う。祖母の代わりにお金の計算をして、片付けして、ゴミを出して、帰りの新幹線のグリーン車の切符を買って、祖母を連れて新横浜で新幹線を降りて、叔母の家まで祖母を送り届けた。

祖母は果物が好物だったので、祖母が叔父の家にいるときにも、私はラフランスを箱で送ったり、ある時は香水をプレゼントしたりした。私の家に一緒に住んだのは、たった半年ほどだった。とても楽しくて、祖母はずっといたかったらしいのだが、残念なことに私が体調を崩し、入院しなければならなくなり、祖母は叔父の家に引っ越した。

たった半年だったけど、祖母と一緒に住めて幸せだった。それに、少しは恩返しできたかもしれない。家も新築だったし、父も祖母を大切にした。良い思い出だ。私が体調を崩したのが口惜しい。

祖母は、みんなに大切にされたおばあさんだった。我が家にいた頃には、九州から遊びに来た父の兄、伯父までもが、可愛いおばあさんだと言って、目を細めた。近所の奥さんにも、

「これ、おばあさんに。」

と、お大福をいただいたりした。そして、父も祖母を歓迎していたし、出張のお土産を祖母にも買って来てくれた。祖母の人徳だったと思う。

祖母は痩せっぽちで、三十五、六キロしかなかった。身長も1メートル40センチぐらいだったろう。でも、その存在感は大きくて、亡くなった今もよく思い出して、母と二人で思い出話をする。

祖母は若い頃から働き者だったらしい。大津の実家には生活のリズムがあり、朝、祖母は多いときには八個の弁当を詰めていた。大変な労力だったろう。

そして、戦争の最中、子供を産み、戦後の物の無い時代に子供を育てた。着物を売ってお米に変え、子供や、家族に食べさせた。祖父が教員だったので、戦争に駆り出されなかったのが幸いだった。

母を先頭に四人の子供を育てた。そして四十八歳の時にはもう、初孫の私が生まれた。曽祖父と曽祖母と同居して、気を遣って、働いて働いての人生だっただろう。曽祖父と曽祖母を看取ってから後は、趣味の華道を習ったり、コーラスに通ったり、祖父と一緒に海外に旅行したり、楽しんでもいたようだ。そして、祖母にはいつでも友達が大勢いた。

孫は八人いた。自らも小学校の教諭をしていたので、子供は大好きだった。晩年、保育園で保育士のアルバイトをしていた頃の写真を見たら、いい笑顔で小さな子供を抱っこしている。子供が懐いて甘えてくるんだと言って笑っていた。

こんなおばあちゃんだった。肝硬変で亡くなって、もう十七年くらいになる。曽孫を見ることなく亡くなった。通夜は孫どものパーティーだった。祖母の人柄だっただろう、食べ物も飲み物もふんだんにあり、ホテルに部屋がとってあって、私たちは祖母を偲んで、大いに思い出話に花を咲かせた。

母が南側の庭に蝋梅を植えたのは、祖母が亡くなった次の年だった。祖母が好きだった花だという。毎年、お正月が過ぎてまだ寒い頃、庭に蝋梅が咲くたびに、祖母を思い出す。寒さに負けず咲く小さな黄色い梅もどきの花に、私は祖母を思って、

「今年も頑張ろう。」

と毎年誓うのだ。大好きだったおばあちゃん、会いたいよ。

(終わり)

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