葉桜の下を通る時は、小さな毛虫が落ちて来ないか、ドキドキする。今日は日傘をさしているお陰で、少し安心していられるが。バス停に着いて、バスを待つ間、トートバッグからペットボトルの緑茶を出して、一口含んで、またバッグにしまい込んだ。

 大型車のエンジン音が聞こえ、バスが来た。ポケットからスイカを出して、料金箱にかざして、奥へ進む。後部座席の二人掛けの席が空いているので、窓際に座っている乗客に会釈をして、空いている通路側に座り、文庫本を出して読み始める。

 前の席に座っている若い母親が抱いている小さな赤ちゃんが、後ろに座っている私に笑いかけてきた。私は本から目をあげて、微笑んだ。するとお母さんと目が合って、お母さんも笑いかけてくれた。私は、

「可愛いですね。何ヶ月ですか?」

と訊ねた。若い母親は、後ろを向きながら、

「ありがとうございます。八ヶ月になったところです。わんぱくです。」

と笑った。

「ちょうどハイハイなんてする頃ですね。」

「はい。」

母親は、軽く会釈して前を向いた。私は妹のところに去年生まれた姪っ子を思い出していた。

 私は結婚していない。気楽な独り者だ。結婚を急いだほうがいいと思っていたのは、せいぜい三十歳までで、三十を過ぎると、急に結婚願望が消え失せた。二十代は失恋の連続で、男運の悪さを思い知った。それでいて、望みは高く、適当なところで妥協して結婚するという常套手段に走れない。お見合いよりも恋愛だろうと思い込んでいた。絵に描いたような幸せな恋愛結婚ができないなら、一人でいよう、それも悪くないかも、と思っている三十代だ。 

 この四月で三十六になった。厄年である。今年はあまり何も大きな決断はしないでおこうと思っている。何か、コツコツと粘り強く続けていくような年にしようと思っている。あまり、結果を出そうと焦らず、ただ持続していければいい。

 バスは駅に着いた。今日は土曜日で、カルチャースクールだ。中世の英詩を訳す授業に参加している。駅ビルの地下に教室はある。お昼時なので、ケンタッキーフライドチキンに入る。なるべく普段から野菜を多く摂り、脂っこいファストフードは避けるようにしているのだが、急にチキンが食べたくなった。お財布にも優しい。

 チキンレッグにかぶりついて食べていると、斜め前のテーブルに、今日、授業を一緒に受けるクラスメイトのアイコが同じくポテトをかじっている。しばらくすると目が合って、お互いに笑い出した。

「そっちのテーブル行こうか?」

と言うと、

「うん。来て。」

と、アイコはテーブルの上に置いたバッグを隣の椅子に移動させてくれた。私は荷物を先に運び、食べ物もテーブルに移動させて、

「偶然だねえ。いつも私、ファストフードは避けてるんだけど、今日はどうしても食べたくて。やっぱりケンタはおいしいね。」

「おいしいよね。私も今日は気分だったんだ。」

「たまにはいいよね、ジャンクも。」

「うん。唯一の野菜、コールスローにもたっぷりマヨネーズ入ってるし。笑。」

「カロリー忘れて食べようね。」

二人はしばらく無口になって、チキンと格闘していた。チキンを食べ終わって、指と口の周りを濡れナプキンで拭いたアイコが、急に、

「ねえ、ねえ、今度の金曜日の夜、あいてる?」

と尋ねてきた。私はスマホのカレンダーを見ながら答えた。

「金曜日か。うんと、ちょっと待って。あ、締め切り終わって、一息ついたところだわ。木曜日が締め切りだから。」

 アイコはそれを聞くと声のトーンが高くなり、

「ちょうどよかった。飲み会なんだけど、フリーランスの。独身のフリーランスのライターばっかりが集まるの。私も行くけど、友香、行かない?」

と、誘う。

「ああ、合コンか。」

「うん、私たちの時代の言葉でいうとね。笑。飲みだよ、飲み。」

「場所はどこ?」

「地元だよ。関内。焼き鳥屋なんだ。」

「日本酒だね。行く!」

「うん、多分、日本酒飲めるよ。よかった。じゃあ、待ち合わせはJR関内駅の改札ね。六時半。」

「わかった。」

 二人は授業に向かった。

 

 次の日は日曜日だった。早朝、二時にベッドから這い出して、パソコンで原稿の執筆をした。私はしがない物書きなのだ。会社に勤めていた頃の給料は、今より良かった。今はその二割は減収だ。しかし、通勤もなく、苦手な人付き合いの煩わしさもなく、締め切りに追われることが唯一のストレスで、会社員に比べれば、私にとってはやりやすい。月刊誌にふたつ連載し、週刊誌にも連載がある。オンラインの雑誌なので、講読料はタダだ。どれも広告収入で成り立っている雑誌だ。だから、収入も多くは望めない。物書きにとっては世知辛い世の中だ。

 アイコは小説家だ。アイコもオンラインの出版社に原稿を収めて食べている。同じく独身で、年も近い。アイコは結婚願望が強い。アイコが私を飲み会に誘ってきたことは、今回が初めてではない。私は、結婚願望がないとアイコに伝えてはあるが、フリーランス同士で飲むなら、勉強にもなるだろうと考えて、誘ってくれたに違いない。

 原稿は六時に書き上げた。そのまま、ベッドに潜り込み、二時間熟睡して、起きると、定年退職した父と、専業主婦の母が朝食を食べているところだった。

「おはよう。」

「おはよう、お味噌汁、あっためなさい。」

「うん、わかった。」

今日は良い天気だ。母が、

「今日は、キュウリとミニトマトとナスを植えるわ。いいお天気だからね。」

「私、手伝おうか?原稿、今朝あげたから。」

「うん、ありがとう。」

 私は、ご飯に梅干しを入れて、お茶漬けにして、サラサラと啜った。

 親子三人の暮らしは、気楽だし、快適だった。家事は母と分担でこなした。料理も洗濯も掃除も、二人でやれば、負担は半分で済む。問題は、経済的なことだった。二割の減収は痛かった。自分の売名行為もしなければ、と思い、懸賞に応募することもある。作家として、押しも押されぬようになるためには、まだまだ修行が足りない。

 結婚の経験がないこと、子育てもしていないことが、物書きとしての自分の可能性を狭めているのではないか、という不安もないといえば嘘になる。だからと言って、結婚する気はさらさらなかった。他人に迷惑かけないで、なんとか生きていければそれでいい。

 洗濯物を干し終えて、掃除機をかけ始めた。そこへ家電が鳴る。

「はい。」

「あ、お姉ちゃん?」

「ああ、香澄?元気?」

「うん。こっちはみんな元気だよ。元気?」

「うん。変わりないよ。どうしたの?」

「うん。今日、なっちゃん預かって欲しいの。」

「うん。どうした?」

「今日、結婚記念日で、二人で外食しようってことになって。贅沢だけど、本当に久しぶりだから、なっちゃん預けに行ってもいい?」

「外食って、夕飯?」

「うううん。ランチだよ。車でなっちゃん預けに行って、その足で二人でランチ食べて、それでまたなっちゃん迎えに行こうと思って。」

「そっか、わかった。ママに一応相談して折り返す。待ってて。」

「わかった。ありがとう。」

 香澄が一歳二ヶ月になる夏海を連れて家に来た。夏海は人見知りをする頃で、つい先だって抱っこしてあげたのに、もう私を忘れて顔を見ると泣く。可哀想に。香澄と旦那の康隆さんが夏海を置いて去る時は、夏海はワンワンと泣き叫んだ。私と両親のミッションは辛いものとなりそうだった。

 夏海はぐずっていたけれど、アイスクリームを食べさせると、少し機嫌が直って来た。香澄が置いて行ったおもちゃを与えると、黙々と遊んでいる。両親は思いがけず孫に会えて、嬉しそうだ。お昼に、うどんを作って食べさせた。小さく切って口に入れてあげると、もぐもぐと噛んで美味しそうに食べてくれた。しばらく遊んであげると、人見知りも治まった。こんな時は、私は姪っ子の夏海を本当に可愛いと思う。

 午後四時ごろ、妹夫妻は夏海を迎えに来た。私が、夕飯を食べていくように誘ったが、帰ると言う。明日、康隆さんは勤めがあるから、帰りたいらしい。仕方がない。

 夏海は香澄の顔をみると、自分が置き去りにされていたことに気づいて、思い切り泣き出した。夏海が不憫でこっちまで泣きたくなる。ところが、香澄が抱くと、途端に泣き止んだ。こういうときほど母親の強さを思い知る時はない。香澄が本当に偉く思えた。世の母親は、みんなこんなに強いんだな。私は感動していた。

 夜は大河ドラマを観て、早めにベッドに入り、また午前二時に起きて、原稿を書く。そして、四時間書いて、六時にベッドに潜り込み、八時まで熟睡。このリズムでなんとか仕事をこなしている。一日に四時間の執筆では、まだまだ少ない。昼間は、家事をして、読書をしたり、そしてまた原稿を書く。時間があれば、趣味のジャム作りをしたり、梅干しを漬けたりもするし、週に二度はスポーツジムで汗を流す。物書きは、書くことが浮かべば、楽しい仕事だ。しかし、アイディアが枯渇すると、すごく辛い。時には自分を責めて、自己嫌悪になることもある。

 会社を辞める時は、本当に悩んだ。固定収入がなくなることは怖かった。しかし、それよりも、書くことが好きだという気持ちが強かった。オンラインで細々と食いつないでいくやり方と、それから、創作短編をブログに発表していくことで、創作意欲は満たされるようになった。服や贅沢品を買うことは、もう以前のようにはできなくなった。同じ服を何年も着ているが、そんなことは我慢できる。いつか、作家として一本立ちしたい。その思いで、今日も作品を書き続けている。

 金曜日は雨だった。今夜は、アイコの飲み会だ。何を着ていけばいいか、迷ったが、白のブラウスとブルーのデニムを履き、麻のジャケットを羽織った。首元にスカーフを巻いた。

 関内駅の改札に着くと、アイコはもう来ていた。

「ごめん。待った?」

「うううん。私も今来たところ。行こうか。」

「うん。」

「飲み会は七時からなんだ。ここから歩いて五分ぐらいだから、どっかでお茶して時間潰そうか。」

「うん。」

 二人はスターバックスに入り、飲み物を買って、椅子に向かい合わせで座った。

「どういう仲間なの?どうやって知り合った仲間?」

「うん。話せば長いんだけど。」

アイコはアイスカフェラテをストローで吸いながら、大きな目を見開いて私を見た。

「私が原稿入れてる出版社で、毎年、新年会するのよ。ライターさんと編集スタッフの親睦会なんだけど。」

「うん。」

「有名な作家の先生もいらっしゃるから、勉強になるから、会費は高いけど、フリーランスのライターがみんなこぞって参加するの。」

「うん、うん。」

「それでね、一昨年の新年会で、二次会、三次会って行ってみたのよ、私。そしたら、三次会で、一人を除いて全員フリーランスの独身だっていうことがわかったら、その既婚者の人が、『お前ら、連絡先、交換して、合コンやれ』って音頭とってくれて。それで、一人、リーダー格の男の人が毎年、この頃になると、気候もいいから飲みましょうか、って声かけてくれるんだ。」

「ほとんどが作家の卵みたいなもん?」

「いや、そうでもない。私は小説家の卵って自称してるよ。」

「そうなんだ。」

「有料メルマガとかで稼いでいる人もいるし、みんな、それぞれだよ。」

「ふうん。」

「ブックライターっていう人もいる。ゴーストライターに徹してるんだって。結構稼いでるよ。」

「そうなんだ。」

 私は、キャラメルマキアートをすすりながら聞いていたが、アイコの目を見ながら、

「面白そう。きっと勉強になるわ。ありがとう。」

「うん!」

 会場の焼き鳥屋に着くと、メンバーは十数人でもうほぼ集まっていた。アイコが私を皆に紹介してくれたので、私は一言挨拶して会釈した。皆は揃って拍手してくれた。

 席につくと、アイコが多分リーダー格と言っていた男の人が、

「何か注文してください。飲み物は何がいいですか?」

と訊いてくれたので、私は遠慮なく、

「あ、もし良ければ、日本酒の冷やを一杯お願いします。」

 私はビールはそんなでもないのだが、日本酒に目がない。焼き鳥は次から次に運ばれてくる。それと、大盛りのサラダがテーブルごとに置かれている。

「藤本さんは、今はどういうことされてるんですか?」

 隣に座った小太りの男の人が話しかけてきた。優しい目をしている。私は、

「オンラインの雑誌に連載をいくつかしています。あの、お名前なんておっしゃるんですか?」

「僕、武藤です。」

「武藤さんは?」

「僕は作家志望です。一応、主だった新人賞に応募していますが、まだまだで。あとは食いぶちのために、ライターしています。オンラインの記事です。」

「ご両親と一緒に?」

「はい。藤本さんは?」

「私も同居です。」

「あの、彼はブックライターですよ。インタビュー本なんかを書いています。ビジネス書が多いから、結構部数出るらしいですよ。」

「そうなんだ。」

私は備長炭で焼いた、ねぎまをクイッとしごいて食べた。

 彼と呼ばれたギンガムチェックのシャツを着た男の人が、私の方を見て、乾杯してくれた。私も冷やの入ったグラスで乾杯の動作をした。

「藤本さん、書くって、楽しいよね?」

『彼』は少し酔っていて、気分が良さそう。

「はい。楽しいですね。」

 私は訊かれたことにそのまま返事した。

「僕、ゴーストライターだから、自分の存在消して書いてるけど、それでも楽しい。時々、依頼してくる人の注文の通りに書かないで、かえってその方がよくなることもある。そういう時に、わかってくれて、素直に喜んでくれる依頼者ばかりだと嬉しいけどね。残念ながら、そうでもないんだよ。それが辛いところだな。」

 私は頷きながら日本酒を含んだ。武藤さんが、

「それでも、それだけ稼げれば、文句をいうのはよくないよ。凄いんだよ、部数が。」

 『彼』は、また言葉を繋いだ。

「そうだなあ。でもね、不本意に書き直すのは本当に嫌なもんだよ。でも、背に腹は変えられない。依頼者のネームバリューで本が売れるんだからね。」

 私は興味を持って、訊ねてみた。

「契約は歩合制ですか?それとも?」

『彼』は、

「契約によって違うよ。ページ数や文字数で契約金をもらって、書き上げて、それから、部数によって、またもらえる。増版ごとにまたもらえることが多いよ。」

 武藤さんは、

「増版なんて、僕にとっては夢だなあ。」

 その話を向かいの席から聞いていたおかっぱの女性が、

「私は雑誌にインタビュー記事ばかり書いていて、もう十年になるわ。今度、今まで書いた記事をまとめた本を出してくれるらしいの。でも、あんまり期待しないでおこうと思ってる。」

「え?どうして?」

 私は彼女の方を見て急に言ったが、後になって失礼じゃなかったか心配になった。彼女は黙っていたが、『彼』が、

「小林さんはねえ、ペンネーム変えた方がいいって、僕、前言ったでしょう?画数だよ。」

 私は黙って聞いていたが、でも、十年も続けている仕事がある人がペンネームの画数でまだ悩むとはにわかには信じられなかった。

「だって。親からもらった名前にケチつけるの嫌なんだもん。」

 武藤さんが、少し赤らんだ顔色で私の方を見ながら訊いた。

「藤本さんは、もう書き始めて何年くらいですか?」

 私は、大きく息をして、

「もう七年です。二十代はほぼほぼ会社員してました。書く暇なんてなかった、忙しくて。それで、ごちゃごちゃ悩んで、人間関係とか業績とか色々ですが、辞めて、書き始めました。ブログに短編載せ始めて五年です。」

「七年かあ。色々悩む頃ですよね。」

「はい。応募したりしてますが、ダメです。」

「僕ももう八年、こんな生活です。オンラインの記事じゃあ、結婚なんてできませんね。でも、好きなことを諦められなくて。夢もって生きてるから、今の所、楽しんでますが、これじゃいけないとは思ってます。」

「小説はどんなものを?」

「はい。時代物です。」

「じゃあ、新人賞なんて狙ってらっしゃるんですか?」

「恥ずかしながら。そろそろ芽が出ないなら、親の方からの最後通告も出そうです。」

 私は頷いて、サラダに手を伸ばした。

「私は結婚願望はもう消え失せました。一生一人でいいと思ってます。書き続けられればそれでいいです。」

 すると、さっき私が失礼だったかもと心配していた小林さんという女性が、

「私もよー。独身で結構。身軽に生きていきたいもん。」

 それを聞いたアイコが、

「ちょっといい?私、結婚はできればしたい。でもね、作家同士はどうかなあ?この飲み会って、全員独身ってことで、ちょっとお見合いみたいな側面あるけど、それ気に入らないの。」

 すると、小林さんも、

「私もずっと思ってた。独身同士で集まるのは気楽でいいけどね。お見合いじゃないよね。」

「うん。」

 私は黙ってサラダのプチトマトを口に入れた。二人の女子はちょっとお酒がまわっているようだ。するとブックライターの『彼』が、

「いいじゃん、そんなのどうでも。お見合いがてら、勉強もできる。そういう気楽な会でいいじゃん。」

 武藤さんはブスッと押し黙ったまま、泡の抜けたビールを煽った。私はちょっと気を利かせて、

「武藤さん、今度よかったら作品、読ませてくださいませんか?」

と言った。武藤さんは、少し驚いて、

「え?いいんですか?嬉しいです。読んでみてください。」

と言って、オンライン記事を載せているサイト名を教えてくれた。私も、

「よかったら私のも読んでくださいませんか?」

「はい、是非。」

ということで、私は連載している雑誌名を言った。

「僕、感想をメールさせてください、メールアドレス教えてください。」

「はい。私も感想、お伝えします。」

ということになり、メールアドレスを交換した。

 この飲み会が終わってしばらくすると、武藤さんは、応募作品を読んで欲しいと言って来た。メールに添付されたそれを読むと、彼が落選し続ける訳はわかった。しかし、私は彼に何も言えなかった。

 アイコと二人、焼き鳥屋での飲み会の後、関内駅まで行く途中で、ワインが飲みたくなり、ワインバーに寄った。

 アイコはだいぶん酔っていたが、酒癖は悪くないらしく、ニコニコとよく笑って、

「どう、友香、楽しかった?」

「うん。そうだなあ、私もお見合いって感じじゃなくて、勉強会ならいいな、と思った。」

「そうでしょう?あそこにいる男の人たちって、恋愛の対象には見れないのよ。」

「うん。」

「でも、いい人が多い。みんな頑張ってる。だから、仲間としては大好き。」

「そうだね。」

「また、来年も誘うよ。」

「うん、是非是非。」

アイコはよく冷えた白ワインを飲みながら、

「私、負け犬だなあ、って思うこと多いけど、負け犬でもいいや。勝ち組になり損なってはいないよ。自ら進んで負け犬になったんだから。」

「まだ、わかんないよ。書き続ければ、勝ちだよ。自分に勝てばいいのよ。他人と比べて勝ってるか、負けてるかなんて、考えないでいいんじゃない?」

と、私はまじめ腐ってこういうと、カマンベールチーズをつまんだ。アイコは目を輝かして、

「そうだよね。そうだ、そうだ。」

 私は続けた。

「恵まれてるなあ、って自分で思うこと多いよ。私の場合は、両親が元気だし、一緒に住ませてくれてるし、私は純粋に好きなことさせてもらってる。自分に勝たなきゃ、申し訳ないね。」

「うん、友香は恵まれてるよ。」

 私は、こう結んだ。

「負け犬宣言しちゃえば、楽なもんだよ。負け犬だって自分で認めれば、もう誰も何も言ってこない。後は自分で自分の人生、責任持てるように頑張るしかないでしょ?」

 アイコはワインの残りを流し込みながら、頷いて、

「うんうん。あー、楽しかった、今夜は。また、明日から頑張ろう。頑張れそうだわ。」

と、私の目を覗き込み、

「友香が来てくれて楽しかった。ありがとう。」

 二人は、

 「そろそろ行こっか。」

と、席を立った。

 関内駅まで二人で歩いた。雨は止んでいた。濡れた路面に照明の色が輝いていた。アイコが今までより身近に感じられて、私はまた一人友達が増えた気がしていた。

                (了)